murokentoの日記

適当に適当なことを書くブログ

VTUBERにハマってしまって少し冷静になりたい。

いつのまにかホロライブメンバーのVTUBER動画に時間を取られるようになってしまったので、少し冷静になりたい。

距離を置きたい。

 

おそらく、これは何か新しい時代の発明に近いと思うし、パラダイムシフトの流れのような気がする。

 

◆いったい何なのか?視聴側は何を受け取っているのか

ゲーム実況配信が多いが、昔のインターネットのように、ゲームの裏技やテクニックを届けるというわけではない。

むしろどちらかというと、失敗したりうまくいかないのを見て楽しむといった感じだ。

うまくいかなくて、リスナーに助けを求め、リスナーが手助けすることもある。

 

まあいえば、若い女性が「ひぇ~ん」とか「やった~」とかいってるのを観察して、たまにアドバイスや共感をしている気になるといったところである。

 

あとは、Liveであり、長時間で毎日やっているために、接する時間が長くなり、配信者も、しゃべり続けるために非常に親近感がわいてくる特性がある。

 

いつのまにか、遠いどこかの知らない人ではなく、良く知っている親しい人のように感じるようになってくる。

 

いつのまにか、とりあえずYoutubeを開いて、誰かのLiveを流したり、毎日見てしまうようになって、

 

メンバーの関係性を面白がるようになる。

 

正直、これはまずいと思っている。

本能的に、ああ、これはあかんやつやと思う。

 

結局のところ、リアクションのゲーム実況なんて、

普通は言葉に出さないことを、言葉にだしているわけで、

それは、つまりは、普通に生活していると表現しない心の内の部分であるわけで、

それを世界中に公開するってのはおかしいし。

 

それが人気者であれば、売れてしまうような世界に変わってしまった子いうことだ。

 

つまり、何らかの要因で人気がでた人は、その人のプライベートな情報を高額で売れるような時代だということである。

 

「~を見て~と感じました。」と思ったことを表現するだけで「売れる」のである。

 

いや、それだけなら、本や、ブログも似たようなものか。

Youtuberがいままでとどう違うのかと言えば、共感とライブ感だろうか。

 

あとVTUBERのゲーム実況についていえば、「同じものを見ている」感かもしれない。

 

「この同じものを見ている」というのは、今までの時代ではなかなかなかったことだ。

なぜなら、基本的には、みんな違う風景を見ているからだ。

 

これがゲーム画面となると、みんなが同じものを見ているということになる。

マインクラフトのようなゲームであれば、視線すらも共有しているわけである。

 

だから、マインクラフトの実況は共感しやすいのではないだろうか。

そして、VTUBERは思っていることをベラベラとしゃべりつづける。

 

普通の生活ではそんなことはしない。

だから、見ている人は非常に親近感を感じてしまう。

 

相手の見ていることも感じていることも思っていることも情報として受け取るからだ、それを何時間もある配信で、そしてそれを毎日繰り返される。

 

イカれてるぜ。

 

◆あとヘッドフォンだとみみがないなるでぇ

マジで気を付けた方がいいと思うんだが。

配信中ににいきなり大声を出すので、みみがないなる可能性。

あんなの毎日長時間聞いてたら難聴になると思う。

 

 

 

 

 

2020年はいつのまにかVtuberがとても流行っていた話

僕も最近Vtuberになって、次元の彼方に飛んでいきたいなみたいな気持だったので、それについて多少調べてみた。

 

◆Live2Dモデルの利用

んでわかったこと

Live2Dという技術で、自宅から配信していて、

3Dトラッキングは事務所みたいなところで配信しているようだ。

 

おそらくつい昔、といっても2年前くらいの話だろうけど、

そのころ流行った3Dモデルがちゃんと動くタイプのVtuberが第一流行りで、

 

しかし、それを行うのは、それなりの環境が必要だったので、大規模には流行らなかった

 

それが、Live2Dモデルと、カメラによる、簡易な顔のトラッキングだけで、

体は動かないタイプのVtuberが流行ったようだ。

 

そういうタイプはゲーム実況とおしゃべりを中心としている。

ゲーム実況とVtuberは相性がよく、体が動かないLive2Dモデルの代わりに、ゲームキャラが動きを表現してくれる。

 

マインクラフトのような素材を使うと、安価にVtuber同士がコラボできるから、それもよく使われているようだ。

 

そして、そのLive2Dのモデルが、ある意味3Dモデルよりも、よくできていると感じる。

たぶん、作るのにはそれなりの労力がかかっているのだろうが、

何というか、味があるというか、おそらく、見ている側の人が想像力で補完するのだろう、なんだかすごく、人間味を感じてしまうのだ。

 

◆大衆に普及したiphoneの前面カメラによる表情のトラッキングが可能になった

こちらは一般人が、携帯アプリによって配信するタイプだが、iphoneだけで成立するようになった。

 

で、少しRealityというアプリを入れて、配信を聞いてみたのだが、

なんだか、仕組みがソシャゲっぽいのである。

 

まだよくはわからないが、なんだか、ソシャゲで培われた人を依存させたり、ガチャに大金をつっこましたりするノウハウが詰まっているような設計になっている気がする。

 

おもしろいと思ったのは、視聴者数が、同時接続ではなく、累計表示になっていることである。そして、いわゆる部屋に現在いている人数がまったくわからなくなっている。

 

入室は表示されるが、退室は表示されない。

つまり、配信者は今何人見ているかわからない状態でしゃべり続けている。

見ている側もわからない。

 

これは、まあ、開発者が、そういう設定にしたのもわからなくはないが、実際に人数と表示されているものよりもずっと少ない人しか部屋にいないということになる。

 

もしかすると、ほとんどの配信者は5人以下くらいにしゃべっているのかもしれないなと思った。そしてその人もどんどん入れ替わっていくわけでもはやいったい何なんだろう。従来の枠でかんがえるとよくわからない。

 

そして、ガチャで着飾り、お気に入りにギフトを投げれるようだが、投げ銭みたいに、少しばかり還元されるらしい。まあ、学生とかならお小遣いになるのかもしれない。

 

◆時代は進んでわけがわからなくなっていく。もう自分は老害になってついていけなくなってきた予感

パソコンを学習することを放棄した老人たちのように

もう、僕はこの先のテクノロジーや文化を学習することを放棄するのが近づいているのかもしれない。

 

これからの子供たちは自分と違うアバターをいくつももち、

自分の容姿も、名前も所属もいくつもあって、それらを切り替えながら生きていくのかもしれない。

 

絵や3Dと友達になり、最初に恋をする相手はVtuberなのかもしれない

 

振り返ると、初音ミクが登場し、

アイドルマスターのCGモデルが歌を歌い

 

あそこら辺からちょっとヤバい雰囲気はあった。

それでもまだCG感はあった。

 

しかしもう、「うさだぺこら」みたいな企業Vtuberは本当に存在するかのようにリアルさがある。まあ実際中に人がいるのだが、いるのだが、その人とキャラクタが融合した何かに感じる。

従来のアニメは声優は誰々とクレジットに入っているが、Vtuberはそれがない。

 

そしてYotubeに導入されたスパチャで、札束が飛び交うのだ。

いったい何を見せられているのだろうか。

 

◆一つ思うのは、いわゆる配信者とは従来のコミュニケーションの得手不得手とは違う様な気がする

まあ、そもそも従来のコミュニケーションの得意な人はVtuberになって配信するという選択をすることがないということもあるが、

 

いわゆる現在のライブ配信とは、一人が中心となりずっとしゃべり続け、他の視聴者がコメントを打ってそれを、配信者が拾うというスタイルである。

 

そして、この「ずっと一人でしゃべり続ける」という方法が、

従来のコミュ障とよばれる人たちが得意とする方法なのではないのかという仮説だ。

 

録画配信だとしても、反応もなく、カメラに向かって、一人でしゃべりつづけることだし

 

ライブだとしても、同じく一人でしゃべりつづけるわけだ。

そういうことができちまうってのが、ある意味才能であると思う。

そいう才能が今までの社会では使うとこがなかった、

Youtubeというメディアがそれを表現する場になっているのではないかと思う。

 

仮想世界のものづくりは何個もつくらない

学校で勉強するのは教科書を使って、教室で話を聞くことが多いから、勉強とはそういうもので、脳を鍛えるとはいわゆるお勉強がそうなのだと思っている人が多いかもしれないが、

実際のところ、体を動かすのも、見るのも、脳のなせる技である。

工作をすると手をよくつかう。指を良く使う。微妙な力の入れ加減。手触りによる感覚も大事だ。

デジタルなものづくりではそれがない。
今のところ。

基本的にはマウスとキーボードになるし、VRでも手触りは実装されていない。

VRでは重さを感じない。

持った時の重さを感じることはなんだかクラフトにおいて重要におもえる。

現実で作れば、毎回少しづつ違うものができてしまう。現実とはそういうものであるからだ。ある意味職人とはその誤差を少なくし品質を安定させれる技術をもっているといえるかもしれない。

仮想世界で同じようにつくれば、同じモノができる。デジタル上でつくるので同じものができる。
というか、デジタル世界でつくったものを同じ作業で同じものをつくることは基本的にしない。
意味がないと感じるし、面白くないからだ。

2つほしいならコピーすればいいとなる。
だから作るというのは設計の方になる。

そういうデジタルものづくりの感覚に溺れると、設計こそがつくることで、いわゆる製造はオマケのように思えてくるだろう。

ワンクリックでコピーできるからだ。いくつでも。

昔は機械やコンピュータがなかったから、大量生産ができなかった。

だから同じものをいくつもつくる必要があった。

それゆえに、その作ること自体に価値があって、職人という人たちがたくさんいたんだろう。

僕は昔にもどってほしいといっているわけではなく。

人間本来の歴史的には、手先や小道具をつかってものをつくるってのがほとんどで、
パソコンや仮想世界でものづくりをするっていうのが、人類の最先端のほんの短い歴史であるということ。

最先端の〜をすごいと思ってしまうが、実は自分自身では、身の回りにあるもの全然作れないという世界に生きるのは窮屈ではなかろうかという。

いくらIoTでエアコンが外からスマホで操作できても
エアコンも、スマホもソフトウェアも作れない。ブラックボックスの上で生活しているようなものだ。

それだけではない。
単純だとおもってる、服も靴も帽子も作れない。

机も椅子もつくれない。
鉛筆もノートもつくれない。

ティッシュもカガミもつくれない。

もう少し、自分でつくったものを身の回りにおいた方が、健全ではないだろうか。

マイクラのような仮想世界でのものづくりをすることの影響について思考

マインクラフトが子供たちの間で、流行らしい、実際は見ていないので知らないが。

その原因としては、現実でクラフトをする機会をうしなっているのではないのかと。

僕は最近思うのだが、こんなに何でもできそうな近代社会にいながら、なんだか窮屈なきもするのは、一つはクラフトする機会をもてないからではないからではないだろうか。

例えば、傘じぞうにでてくるような、藁で編んだ傘や草履を作ったことはないし、

もし、タイムスリップして、昔にいっても何も作れないじゃんってなると思う。

インターネットもパソコンもないし。
せめてインターネットがあれば、調べてやればなんとかなるかもしれないが。

イクラの中では自分の家を建てれるが、現実ではもはや自分で家を建てることは考えることもしないだろう。

だからある意味マイクラのような仮想世界での工作が本来の人間的なクラフト力を思い出させるきっかけとなっているのかもしれない。

もう一つ、気になっているのが、VR内でのクラフトである。
NEOS-VRだったっけか。
おもしろいのは、
VR内のオブジェクトをVR内で作成することができるというところだ。
プログラム的な設定もできるらしい。」

例えば、箱をピカピカ光らしたりできる。

現実でピカピカ光箱を作ろうとすると、それなりに大変ではある。現実世界では現実世界の無限の深さがあるので。
実際現実世界がなんで存在しているのかも誰もわからないという深さ。

まあ、LEDを使うとしても、
電源がいるし、電圧を調整しなきゃいけないし、ピカピカの部分を、回路でつくったり、マイコン制御しなきゃいけない。
そして、箱をひからすとなると、
箱自体を透明にして内部から点滅するとか、
もしくはLEDシートみたいなものを箱の周りに巻き付けるというやりかたもある。

液晶のパネルを貼り付けて色を変化させるのもあるが、金がかかりそうだ。

大きなものを作ろうとすると余計大変になる。

それがVRだと、もっと気軽に簡単にできるだろうと思われる。

いらなくなったらポイってすればいいし、コピーも簡単だ。

人に上げるのもタダだから貧困もない。

ただ、しかしだ。

VRで作ったものは、いったい何を作ったと言えるのだろうか。

結局のところ、仮想世界でつくられたものは、人間の抽象化されたモノであるのだろうか。

まあいえば、それっぽいもの
である。

そして、それっぽいものでもコミュニケーションにはつかえる

なんだか言語に近いような

しかし、仮想空間に作ったものが、仮想的などうでもよいもののうちは、かわいい話だが。

パソコンのプログラムが現実に影響を与えて、インターネットが人の暮らしを変えてしまったように

いつのまにか、VR世界で創作されたモノが、現実世界に影響を与えるようになったら。

それはいったい何なんだろうかという。そんなお話。

何が気になるか、何に気が付くか、そんなことが多様な世界を創っている気がする

気が利く男がモテるんだからそうしたらいいと、昔誰かに言われてたような、

それともネットに記事でよんだのかもしれないが、

 

しかし、まあ、その言葉とはなにか伝えているようで、

実はなかなか伝わっていないものなのだなと最近は思うようになった。

 

実は言葉の意味とは、ものすごくぼやけたものであって、実はそのぼやけていることこそが、言葉のメリットなのかもしれないし、デメリットでもあるという特性なのだろう。

 

日常生活では、いちいち相手の言った言葉に対して、それは厳密に言えばこういうことでしょうか?なんて質問はしない。

そんなことをすると、なんだか空気の読めない人みたいになってしまうからだ。

仕事は若干違うが。

まあつまり、正確に伝わっていなくても、まあいいのである。

それより何の話だったっけ、

 

ああ、つまり、

今までの文章は実は関係なくて、

それぞれの人の世界の見え方、とらえ方が違うからこそ、それぞれの人の考え方や行動に違いが生まれて、多様なことになっているのだろうと思う。

 

とこうやって、つらつらと文章を書いて、字数を稼ぐというのもたまにはよいものだなと思う。

よく考えれば、僕はどうやら何か正しいことや、正確なことや、自分だけがひらめいたと思うようなことしか書いてはいけないような気がして、筆が止まっていたかもしれない。

 

もっと自由に書いていいのかもしれない。

がしかし、自由に書きすぎてしまうと、読んでいる方は、いったい何の話なのだろうかと付いていくのが大変で読むことをやめてしまうだろうから。

 

だからテーマというものにそって、書くのだろう。

しかし、書く前に全部わかっているものを書くならそうかもしれないが、

 

書いているうちに新しいことが創造されていく場合もあるだろう。

そうすると、最初のテーマから外れていくかもしれない。

そうなった時に、その新しい何かに向かうのか、戻るのかということである。

noteってサービスで100円くらい稼いでみたいと思ったが、書くことが浮かばなかった。

昔、

道端で

ギターを弾き語りながら、歌を歌ったら、

簡単に千円くれた。

若者を応援するような気分でくれたんだろうけど。

 

でも、もしかすると、

Youtubeで1円単位で投げれるようになったら、高校生が歌ったり、踊ったりするだけで、世界中から小銭が投げられて、謎の貧富の差が生まれるかもしれない。

 

でも、そんな小銭はアブク銭だから、もらった人は、また別の人に投げて、それが循環するかもしれない。

 

なるほど、今思いついたのは、

一つは、金銭の獲得だけでなく、

世の役に立っているとか、何かを認められたというフィードバックを

金銭の獲得によって感じられるのかと思った。

 

それにしても、noteで100円投げられるとか、100円払ってでも読みたくなる記事を書くってなかなかむずかしいぞ。と思う。

 

これは、そもそも有名人とかアイドルとかなら、

ちょこっと日記書くだけで、ファンが購入するだろうけど。

 

一般人が書いた記事を買うとすると、

なかなかの価値があるものでないと難しいだろうな。

 

戦略としては、

まず無料で読めるブログ的な記事をだいぶ書き続けて、ファンをある程度つくり、

そのあとに、たまに内容のある有料記事を挟むことで、それを購入してもらうってのがあるだろう。

 

例えば、釣りブログとかだと、

毎週釣りの話の話題の記事を出して、

たまに、秘密の仕掛けとか、釣り方のテクニックとかの記事を100円で販売するという。

 

ああ、なるほど、つまり、成果の部分の情報を出して、そのあとに、こうなるには、秘密の○○という方法があります、100円で読めます。

みたいなことをすればいいのか。

 

う~ん。

 

なんかそういうのをしたいんじゃないような気がする。

ポエム:自分に書けることを書こう。誰かになるのはもういい。

ブログなんて星の数ほどある。

 

どうやら、人生とはあっという間にすぎさって、いつか終わってしまうようだ。

 

30過ぎて、そして35を過ぎて、時間の流れが加速する。

 

そして、老化を感じる。

 

自分が、縄文人なら、もう十分長生きしたほうだろうか。

 

自分に書けることを書こう

自分以外の誰かになるのをもうやめよう。

 

??

 

ここまで書いて?が浮かぶ。

自分が自分と思っているその自分って、ホンマそれあてになるのか?と。

それこそが、偽物ではないだろうか。